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鶯歌

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早期は粗陶器の生産から始まりましたが、技術の向上に伴って、しだいに陶芸の里としての名声を勝ち取っていきます。その過程を振り返ってみましょう。

日本統治時代の1899年、鶯歌に鉄道が走るようになりましたが、その前の水運の時代から、鶯歌は交通の要衝として栄えていました。尖山堆、八徳、大湖などの土が製陶の適していたことに加えて、至便な交通、豊富な燃料などの要素が加わって、鶯歌では早期から、瓦、甕、碗、皿などが生産されていました。やがて機械化生産が始まると、工業としての体裁を整えていき、住民のおよそ8割がこの産業に従事するようになりました。以来、当地の人々と製陶は切ってもきれない縁を結ぶことになります。ここに陶芸の里としての基盤を確立したのです。

過去の鶯歌は、高密度の同質産業を抱え、製陶に関わる軽、重工業地域を形成していきます。これは当地の人々に就業の機会を与えたばかりでなく、多くの人々がこの地に入り込み、鶯歌の発展を促しました。やがて伝統の陶芸文化を守りつつ、製陶に次々に科学技術が取り込まれていきました。鶯歌は一方で、米の生産地としても知られていました。日本時代は米倉とも呼ばれていたのです。およそ百年前の米倉が今も完全な形で保存されています。さらに石灰の採掘も活発におこなわれていました。

しかし1990年になって、陶磁器産業が重大な危機に直面すると、人々は伝統文化の保全に目覚め陶芸学校が設立されました。そうした努力が実って、鶯歌の伝統の技は守られ、内外から「台湾の景徳鎮」と呼ばれるように至りました。

2000年になって、尖山埔路に「陶磁老街」が整備され、「鶯歌陶磁器博物館」が創設されました。一世紀にわたって発展してきた工業の町から、藝術の町へとその様相を変えます。1988年からは陶磁器祭が挙行されるようになり、それは鶯歌を再生させたばかりか、鶯歌の名を国際舞台へと押し上げたのです。

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